愛バンザイ

Just me in the Big Apple.

非暴力不服従で帝国主義に抵抗したパリハカ村のマオリたちの話

もう半年ほど前だけど、3月の中旬にニュージランドの先住民マオリの人たちが暮らすパリハカ村に行ってきました。

たった2日間半の滞在で、限られた情報でしかないけれど、めちゃめちゃ興味深かったので聞いたこと、感じたことをシェアしたいと思います。

 

はじめに、

パリハカのすごさ

ニュージランドの先住民は9~10世紀ごろに東ポリネシアの島々からどんぶらことやってきて、ニュージランドに住み始めた。

19世紀になってヨーロッパからの入植者たちによってマオリの土地が奪われ、行き場をなくしたマオリの人たち(複数の部族)1866年にパリハカ村を作りました。

 

農作物も豊富にあり、繁栄していたパリハカ村にヨーロッパ人がついに武器を持って占領しに来たのが1881115日。その頃リーダーだったテ・フィティ・オロンゴマイとトフ・カーカヒは非暴力不服従でヨーロッパ人に抵抗しようと唱えます。

 

子供たちを最前線に並ばせ、普段と同じように遊ばせる。こちらに武力行使の意図がないということを伝えるため。畑を壊されても、また耕す。入植者が取り上げようとした土地を耕す男性たちは裁判もなしに刑務所にどんどん連れていかれる。それでも武力を持って戦わず、ひたすら土地をフェンスで囲み耕す。

豚も殺され、家も破壊され、女性はレイプされ、男性たちは何年も家に帰れない。

それでもヨーロッパ人の兵士たちにパンを振る舞い、もてなした。

 

パリハカ村のマオリたちはガンディーやMLKよりも前に非暴力運動をした人たち。

 

そんな歴史を持つパリハカ村の人たちは、この自分たちのストーリーをすごく大事にしている。1881年に負った甚大な被害に対する政府/イギリス王室からの賠償はようやく2017年の謝罪と今後の支援という形で始まったばっかりで、彼らの歴史の認識を広めるためにも、私たちに自分たちのストーリーを丁寧に伝えてくれた。

 

そんなパリハカ滞在中、印象的だったのは

  1. 血縁関係が重要視される一方で全く違う人種の人も排除しようとしないこと
  2. パリハカが過去の場所ではなく、今もなお様々な人にとって「安全な場所」として機能していること
  3. イギリス軍から不当な扱いを受けたにも関わらず、決してやり返さず、平和を築こうとしたこと。

 

1. 血縁関係は大事。だけど、それ以外の人も排除しない。

彼らのお話の中にgeneology (縦の血縁関係、親子関係の連鎖、系譜)やancestor(先祖)という言葉がたくさん出てきた。マラエ(集会所、お客さんが来た時もここでもてなす)の壁にも先祖たちの写真が敷き詰められていた。先祖であるテ・フィティやトフ、その他入植者たちに苦しめられた先祖たちに対する深い尊敬と、テ・フィティの教えである非暴力不服従の精神を引き継ごうとする強い意思を感じた。

そうやって先祖や部族の血統を大事にする一方で、そうでない人にも開かれていることがすごく珍しく感じた。

特に印象的だったのが、ナペラ(マラエを管理する副リーダー的存在)が言っていたパリハカ村のシンボルマーク、3本の羽根について。3本の羽根の意味はそれぞれ神に栄光あれ、地球上に平和を、人間全員に対して善を。

ナペラの解釈は、この3つは実は全部自分の中でのことで、どんな宗教であれ、自分が信じる神を大事にしなさい。他人の信条には干渉しない。自分が心穏やかであること、平和であることが大事。自分の心が穏やかだから他者にも優しくできる(みたいなこと)。

それこそが他者への寛容さ、自由を保障する精神を表していると思った。

 

最初はその一見矛盾しているように見える二つの価値観(血縁関係を重視することと他者への寛容さ)が両立していたことに驚いたが、自分たちの先祖やその歴史を重んじているからこそ、平和の伝統を守ることが続いているのだろうなと思った。

歴史的にパリハカが様々な部族から成り立っていたことや、パケハ(ヨーロッパ人)に対しても追い払うことをしなかった(追い払う=イギリス軍に抵抗すると、土地が返ってこないという政策があったから*)。

どういう理由であれ、そういう歴史から、今でも自分とは違う血が流れる人たちを受け入れる寛容さがあって、それは自分たちの先祖や伝統を重視するからこそできていることなのかなと思うと、やっぱり集団的アイデンティティ、どういう風に自分たちを定義するかがとても重要なんだなあと改めて感じた。

 

*全然イギリス帝国は約束を守らなかったが、マオリから奪った土地を抵抗しなかったマオリに返還する約束をしていた。返す返すと言い、マオリが絶滅するのを待っていた。(参考:Parihaka: The Art of Passive Resistance

 

そして、もちろんどんな国からのどんな人たちであっても同じように温かく迎えていただろうけれど、私たちが日本人だったということも彼らの対応や私たちの経験を形作っているだろうということを忘れたくないと思った。もし私たちがイギリス人の団体だったら、どんなストーリーが聞けたのかな、どんな議論ができたのかな、とふと思ったりした。

 

2. 今も「安全な場所」

パリハカは今もたくさんの人が集まる場所となっている。先祖がパリハカにいたマオリの人たちが帰ってくる場所というだけでなく、マオリ以外の人もたくさん集まる。でもそれは私たちみたいにパリハカの歴史、パリハカの非暴力不服従について学ぶためなのかと最初は勝手に推測していた。

私たちが来るちょっと前に来ていたのは日本で言う厚労省?みたいな政府の人たちらしく、日本で言う生活保護みたいな制度についての会議をやっていたとか。それはパリハカを「安全な場所」として認識しているかららしい。

これを教えてくれたフィティ(マラエを管理するリーダーの姪?だったはず、、)は続けて「だいたいここに来る人はみんなそう。パリハカをSafe space(安全な場所)と思って来てる。」って言っていた。

 

ちなみに、英語で言うSafe spaceとは誰からも批判されたり、バカにされたりせず、ありのままの自分が受け入れられる空間

自分の体験や意見を嫌われるんじゃないかとか不安に思わずに各々が表現できる場所。

 

確かに、私たちが滞在していた間にも環境保護団体が戦略会議をするために来ていたり、トラウマをみんなとシェアするイベントをやっていたり、パリハカが現代でもいろんな人が安心して集まれる場所になっていた。博物館みたいなイメージだったから、現代も1860年代と同じような機能を果たしていることに驚いた。

 

3. 過去の痛みとどう向き合うか

同じクラスに南京出身の中国人留学生がいる。パリハカから帰ったあと、その子と南京大虐殺、日本とのその後の関係について話してみた。彼女は最初、「もう私たち若い世代は戦争を経験していないからそんな日本に対して強い憎悪はないよ。自分たちの祖父母やそれより上の世代だけだよ。」と軽快に語っていたけれど、だんだん南京大虐殺を経験した生存者の話をするうちに彼女もすごく感情的になっていった。

「もちろんどんなことを日本がしても南京が負った傷を癒すことはできないけれど、日本はどうしたらいいと思う?」と聞いてみたら、彼女は強い口調で「日本にできることはない」と。でもあるとしたら、「その歴史を認めることかな」と言っていた。「でも生存者の傷は癒えることはない。」と何度も強く主張していた。

その後も南京に住む知り合いの日本人が「地下鉄などの公共の場で日本語を話すと殴られたり、危険な目に遭うかもしれないから絶対しない」と言っていたという話や、一部の極端な人たちは「温暖化で日本の周りの水位が上がれば、日本は島国だから沈んでなくなるからいい」という人もいるなどと話してくれた。

彼女から発せられる日本に対するものすごい憎悪に、私は心臓がドキドキして、感情的になりそうだった。自分がそんなに愛国的な人だとも思っていなかったし、ほとんどの人はそんなこと思っていないだろうけど、「日本が沈むぐらい水位が上がったら中国の主要な都市も沈むんちゃう」って言い返したくなってしまうぐらい傷ついた。

そうやって憎悪や仕返しの連鎖って簡単に起こり得そうなものだからこそ、グッと止めることができたのはすごいなあと思った。

もちろん南京は300,000もの武装していない市民が殺されたし(パリハカは1881115日に殺された人はいないという話になっている。でも強制連行された刑務所で亡くなった人はたくさんいる)、中国が自国が受けた侮辱を今もしっかりと集団の記憶として持ち続けるのは、テ・フィティの非暴力不服従と同じぐらい政治的な手段でしかないのかもしれない。

どう歴史を伝えるか、何を次世代に記憶させるかは極めて(現在の)政治的な問題だから、非暴力不服従が精神的に崇高なものと思うことでも実はないのだろうし、優劣をつけることでもないけれど。

 

それでも、収容されていた人たちがパリハカに帰る道中にパケハとの平和と共生を祈って3つの教会を建てたという話を聞いた時は、ものすごくひどい扱いを受けたのに、すぐに憎悪や武器を捨て、平和を願えるなんて人種差別やゼノフォビアが前提の社会に生きている私からするとすごく驚いた。

もしかしたら人種差別やゼノフォビアもとても西洋的な(近代的な?)考え方なのかもしれない。西洋的な考え方が標準化してしまっているからかなのかもしれない、と自分の当たり前を批判的に捉えるチャンスにもなった気がする。

 

<番外編>

人種差別が先か、帝国主義が先か。

パリハカの人たちがテ・フィティとトフの話をする時にProphet預言者)という言葉を使っていたのが滞在中気になっていた。

Parihaka: The Art of Passive Resistanceを読んで、Prophetという言葉はパケハ(ヨーロッパ人)が作った表現で、パケハはテ・フィティのことを敏腕な政治家・外交官ではなく、狂った宗教的リーダーだと新聞などで表象していたと知った。

報道を通してイギリスの入植者たちにもテ・フィティのことは広く知れ渡っていたようだが、テ・フィティは信者たちを洗脳する危険な人物であって、彼を含めてパリハカの男性たちを刑務所へ強制収容したことは、むしろ彼の信者を守るのためだと正当化した。裁判なしでの刑務所への強制収容はマグナカルタに反するとして反対した人もいたのに、結局都合よくこの大義名分によって、裁判なしに刑務所に入れることが合法化されてしまったというのを読んだ。

マグナカルタをはじめ、選挙や司法制度など一番民主主義が発達してたはずの国がそういうツールを使って一番野蛮なことしていたんだなあと思った。

さらに、テ・フィティ西洋文化との共生について初期の頃は、お互い干渉しない・分離して共生するのをイメージしていたから、パリハカは一切の西洋技術を取り入れず、伝統的なマオリの文化を保とうとした。これに対し、イギリス軍は文明に興味を示さないやばいやつと解釈し、どんどんテ・フィティに対して不信感を積もらせたらしい。(一部彼を優秀な政治家として評価していたイギリス人もいるって書いてあったけど)

経済的な富を求めて加速したグローバル化帝国主義だけど、やっぱり根底にあったのは白人優位主義なんじゃないかと思った。自分たちと違う考え方や意見をもつ集団を自分たちより劣っているとする先入観と傲慢さが暴力に繋がるんだなあと改めて実感した。

 

おしまい。

 

シリア難民のドキュメンタリーWe are not princesses

We are not princesses というドキュメンタリーの上映会に行ってきました。

このドキュメンタリーはベイルートの難民キャンプで暮らすシリア人女性たちの物語。

ギリシャ神話アンティゴネのお話を女性たちが舞台に立って朗読するために、本番に向けて準備していく様子をカメラで追ってる。このワークショップを通して、彼女たちの人間らしさが上手に描かれていてすごくよかった。

 

お茶目で陽気にはしゃぐ一面、こんなにもいろんな苦しいことを乗り越えてきたんだという自信に満ちた一面、愛する家族を失った痛みにもがき苦しむ一面、それでも希望を見出す力強い一面、舞台に立ったらセリフを忘れちゃうんじゃないかって不安になっている一面、昔の自分を自慢気に語る一面などなど人間の複雑さをうまく捉え、彼女たちを多角的に表象しているのがすごく好印象でした。

 

その中でもすごくいいなあと、あんまりこれまでなかったんじゃないかと思ったのが、彼女たちのとてもインテリジェントな面を引き出して、映像に捉えていたこと。

 

女性、特に難民やイスラムなどあらゆるスティグマを持ってしまうアイデンティティってインテリジェンスとか教養、高尚なものとは結びつきづらいと思うんだけど、We Are Not Princessesはギリシャ神話アンティゴネを通して、アンティゴネの決断は正しかったのか、自分だったらどうするかをみんなで話し合いながら、そこから自分たちの置かれている状況について話したり、これまでの苦しい経験をアンティゴネのお話に重ねることで自分自身についての理解を深めていくというとっても知的な活動をしている様子がドーンと表現されている。

 

この上映会の司会者が言っていたんだけど、ギリシャ神話のようなクラシック(古典)って、クラス=階級という言葉が入っているように、もともと教育を受けたエリート層が楽しむものだった。

このドキュメンタリーではシリア難民の女性たちが自分たちのストーリーを加えながら、クラシックなお話を再現する。

 

それって彼女たちのストーリーを語る場を作ってるだけじゃなく、いろんなバリアを壊してるんじゃないかって。すごく素敵だなあって思った。

 

ちなみに、アンティゴネは元王様の娘で、その王様が亡くなって(この辺ちょっと定かじゃないんだが笑)、親戚の中で権力闘争が起こり、その戦争でお兄さんを亡くす。結局アンティゴネの叔父さんが王様になるんだけど、叔父さんからアンティゴネのお兄さんの遺体を埋めることを禁止する法律が出る。

それでもアンティゴネはお兄さんを弔うため、お兄さんへの愛情から、ちゃんと土に埋めたいと思い、その法律に逆らってお兄さんの遺体を埋める。

それを知った王様は怒ってアンティゴネを死刑にするという悲劇。

 

www.youtube.com

 

悲劇だけど、アンティゴネは、自分の信念を突き通して、権力に逆らったたくましさ、正義感から女性の強さを象徴したキャラクターになっている。

シリア人女性たちもこのお話を通して自分たちが、抑圧的な権力、文化に逆って解放されること、正義とは何か、抵抗とは、について実体験を交えながら考えていく。

 

<感想>

他にも感じたことをサクッと。

・彼女たちが経験した悲しみ、痛み、苦しみって、、、(想像を絶するなあ)

第一印象がすごくカジュアルに笑いながらボソっとすごいことぶっこんでくるなあだった。

例えば、娘が可愛がってる猫がすごくいいキャットフードしか食べなくて、お金かかるからもう売ってしまいたいぐらいだよって笑うお茶目で楽しいお母さん。

監督が「そしたら、娘さんが悲しむんじゃないですか?すごくその猫のこと愛してるみたいだし」って返したら、お母さんは笑いながら「これまで愛してたもの全てを失ったんだから、こんなことぐらい大したことないわ」ってすごくカジュアルに言ったシーンとかズドーンってきた。

家、故郷を逃れ、いつ戻れるかもわからないっていうことだけじゃなく、ダマスクスに一人残っていた息子は現地のモスクで殺され、一番上の娘は今イタリアへ船で逃げていて、無事につくのかもわからない。

 

私は自分で選んで日本から離れたし、自分で選んで夏休みも帰ってない。本当に望めばいつだって帰れる。本当に帰りたくなったら明日でも帰れる。そんな身分でいられる私でもたまにものすごく日本が恋しくなって「つらーーいい(涙」ってなるのに、自分で選んでもない、いつ帰れるかもわからない、一生帰れないかもしれない、帰りたくても帰れない、っていう状況で生きてる彼女たちの苦しみって、、ってなった。

 

それでも本当に強く、明るく生きてる姿はすごいなあってなったよね。

 

「私は女性がタバコを吸っちゃいけなかった時代から吸っていたのよ」ってちょっと自慢げに話すところとか、おめかしして出かけた日に撮ったセルフィーを見て「私美しい!」って言ってるところとか、すごく愛らしくて、ちょっとでも日常の中で生きる希望とか、自信とかを見出していてすごく素敵だった。

 

ストーリーテリングってやっぱいいなあ

彼女たちはアンティゴネのお話を通して自分たちのストーリーも語っていく。そのプロセスはもちろん辛い出来事を思い出して何回もトラウマを生きることになるのだけど、すごくエンパワリングで解放的っていうのが彼女たちを見ていて伝わってきた。

アンティゴネのお話を理解しようとするプロセスを通して自分についても内省し、自分の言葉で自分の経験を語ることでより理解が深まる。そこから新しい一歩がまた始まる、そんな感じがした。

 

ストーリーを語ることって本人にとっても大事なヒーリングのプロセスだけど、聞いてる側も真実を知れる機会。

それが例え相反するストーリーでもどれもきっと真実なんだってことを思った。

どのストーリーも真実で、いろんな真実があって、それが人間なのかもしれないって。

 

イスラムの女性たちが抑圧されているとか、ヒジャブが抑圧の象徴だとか、そういう議論は白人フェミニズムの傲慢な解釈だっていう批判もあるから、あんまりイスラム=女性に対して抑圧的というステレオティピカルな考え方はしたくないって思ってたけど(ていうか、それも真実であって、イスラムをdemonizeしてはいけないのは確かだけど)

実際彼女たちはヒジャブを外すことは自由の象徴のように語る。

みんなでお出かけした日にはカメラが回ってる前で「今日は自由だから、ヒジャブ取っちゃおうかな。」って微笑みながら言っているシーンがあったり、昔はルールに従わない時もあったのよという文脈で「ヒジャブがちょっとずれて髪の毛が出ても直さなかったりしたわ」と言っているシーンがあったり。

 

それも正しいのだろうなって。

ヒジャブをつける理由は人それぞれで、神様との関係、宗教の解釈も人それぞれだってアラブ系アメリカ人のジャーナリストが言ってたから、ヒジャブの解釈もきっと色々あるんだろうし、どれも真実なんだろうなって。

 

・色々な抵抗があっていいじゃない

勇気ある行動を取った強い女性として描かれるアンティゴネ

彼女のお話を通してシリア難民の女性たちは自分のあり方について考えるんだけど、

”we are not princesses" タイトルにもなっているこのフレーズ。

最後このフレーズで終わる。

アンティゴネは元王様の娘だった。

だから権力に逆らえたんじゃないかって。

私たちは普通の人。プリンセスではない。

アンティゴネにもし子供がいたら、同じ決断をしただろうか。

アンティゴネが私たちと同じように普通の人だったら自分の信念を貫き通せただろうかと問いかける。

 

歴史上正義のために戦ってきた人たちって命がけでやってて、そんなこと自分にはできないなあってよく思うんだけど、別に命がけでできなくてもいいし、できる範囲でいいんじゃないかってこれを見て思った。

命がけの抵抗じゃなくてもちっちゃいことでもちょっと勇気が出た時にちょっと抵抗してみたらいい。

 

社会運動でも一人のヒーローにだけスポットライトが当てられがちだし、抵抗も個人で考えがちだけど、collective resistance(集団での抵抗)を考えていかなきゃいけないよねという話を別の機会でもして、確かにって思ったの思い出した。

 

日本でも上映してほしいなあ。

 

おしまい。

 

 

 

間違いを犯した人に「罰を与える」

刑務所は必要か。で刑務所廃止を目指すAngela Davisの主張に心揺さぶられた話をしました。

yukoyokoi15.hatenablog.com

 

彼女は、「暴力の加害者に刑罰を与えることが暴力をなくす手段ではない」という考え方に基づいてcarceral feminism(加害者に刑罰を下すことでフェミニズムの目標を達成しようとする人たち、運動のこと)を批判します。

 

carceral feminismはもともと懲罰、投獄という手段を用いて女性に対する暴力を無くそうとする考え方、動きを批判するためにElizabeth Bernsteinという社会学者が作った言葉らしいんだけど。

 

それが私は衝撃的だった。

 

日本でもレイプを犯罪になるようにしようとまさにいろんな人が頑張っている。

2017年に110年ぶりに性犯罪に関する法律が改正されたものの、抵抗が困難な暴行や脅迫があったことが証明できないと罪に問われないというのはそのまま。

www.sankei.com

 

それを変えようとしている弁護士や草の根運動があるし、最近でも娘に性的暴行を加えていた父親が無罪判決を受けたことで、 それに対して批判がたくさんあった。

もっと有罪になるべきって。

 

それに私も同意していたけど、まさにそれってcarceral feminismで、Davisは暴力を維持、強化していると指摘する。

 

彼女自身はあまり詳しく書いてなかったので調べてみたらこんな記事を見つけた。

 

medium.com

 

1994年にアメリカでViolence Against Women Actというのができたのを背景に、女性を守るはずの法によってさらなる暴力の被害が発生しているよって話。

この記事では刑事ドラマで描かれるような善悪はっきりした世界なんてなく、現実はもっと複雑で、権力は不平等だから、結局強いものが自分の都合のいいように法律を使うし、警察だって自らの偏見に影響されて行動する。

mandatory arrest statutes often result in dual arrests, meaning the police detained both parties because they couldn’t figure out who was the “primary aggressor.” In her book Conflict is Not Abuse, author Sarah Schulman wrote that just as often, the wrong person is arrested. “Perpetrators — [often men] — increasingly are the ones to call the police, threaten legal action, send lawyer letters, or threaten or seek restraining orders as part and parcel of their agenda of blame and unilateral control.”

 

Truly violent and abusive people, Schulman continued, are difficult to arrest and convict. And because women who are queer, immigrants, people of color, trans, or even simply interpreted “loud or aggressive,” do not fit our notions of victimhood, innocent people are arrested every day. In this sense, the state’s mode of “protection” becomes an additional method of harassment.

*Mandatory arrest lawは家庭内暴力の通報を受けたら、警察は必ずその現場で誰かを逮捕しなきゃいけない法律は約半分の州で採用されている。

 

要するに、どちらが先に始めたのかがわからないから、警察は両者を逮捕することが多いし、実際は加害者側が被害者に対して、圧倒的なコントロールを得るために、警察を呼んで法的に被害者を弱い立場に陥れようとすることが多い。

そして、警察は自らの既存の「被害者像」に合わないような移民や非白人人種、トランスジェンダーなどの他に単に「うるさくて攻撃的な」女性を日常的に逮捕している。

 

善と悪しかない二元論によって警察、検事、裁判官の力が正当化され、法によって被害者ではなく、国家が守られるという構造を認識しなきゃいけない。

 

加害者を刑務所に入れて、自由を奪い、社会から切り離すことを目指すことがむしろ被害者にとって不利な現実を生んでるんだぜって。

 

法を作ること、厳重化することが悪いわけではないけど、結局暴力を振るっている加害者は被害者を力づくでコントロールしたい/ているわけで、その力をもって法を自分の都合の良いように利用するし、今の司法制度(警察、検事、裁判官、刑務所)はそれを効果的に防げない、むしろ加担できるようになっているってことなんだろうなあって。

 

そう思うと、日本でも性犯罪の法を厳重化することを目指すのが被害者を守ることになるんだろうかって考えさせられた。

 

この記事で紹介されている代替案はrestorative justiceというもの。

これは私も春学期に授業でちょっぴり扱った公立学校でも取り入れられようとしている取り組み。

Rather than retribution, the goal is to help offenders recognize the harm they caused and encourage them to repair the damage to the extent possible.

罰を与えるではなく、加害者に自らが犯した被害を認識させ、被害者との関係を直し、取り戻すことを目標にするもの。

資本主義によって個人の問題、自己責任として処理されるようになったことも、コミュニティ、村でみんなで解決するっていうことなんかなって。

自分に子供ができたらしつけは罰中心ではないやり方にしたいなあって思った。

 

<おまけ>

罰を与えるではない問題の解決の仕方、加害者被害者双方のヒーリングについて考えるきっかけになったことを主題にしたのだけど、他の可能性を探っている記事も興味深いと思ったのでおまけ。

 

そもそも被害者が被害者足らしめられないような環境を作ることに着目したこちらの記事。

ここでは性的暴行の対処法として経済的格差をなくすことだと指摘する。

www.vox.com

 

前述の記事と同じ理由で法律や警察を批判しているのだけど、また別の視点から解決策を議論してる。

権力の差、不平等をなくすため、女性の経済力を向上させ、自立を促し、逃げ道がある状態を作ろうってこと。

We must be precise in our designation of what is at the root of this scourge: power. Sexual harassment and assault are pervasive in our society because extravagant wealth and absolute poverty are pervasive. No, the most equal society on Earth would not be entirely free of interpersonal violence; it would, however, provide far less structural power for perpetrators to hold over their victims. To reduce this violence, we must reduce inequality.

That means redistributing wealth so no one can attain the immunity Weinstein enjoyed for decades. It means expanding the social safety net so survivors don’t need to remain with abusers. It means delinking health care from employment status so that one’s health doesn’t depend on remaining in an abusive workplace. It means the provision of citizenship to the undocumented so that supervisors can’t threaten the most vulnerable among us with deportation to ensure their acquiescence. And it means strengthening unions, so working people have recourse against retaliation for speaking up.

 

「逃げ道が大事」というのは伊藤詩織さんと会った時に感じた。

彼女は英語で仕事ができた。ジャーナリストとして日本以外の場所でも活躍できる道があった(彼女は自分でそれを作ったんだけど)。日本でしかジャーナリストになる可能性がない人だったら(それ以外の可能性を見出せない人だったら)、地位も高く、自分がこれから働きたい分野で影響力のある人に対して、同じように声をあげれただろうかって。

本人は自らのジャーナリストとしての信念に突き動かされた行動だったって言っていたし、もちろんそれは大きいのだろうけど、逃げ道、他の道を作れたことも泣き寝入りせずにすんだ大きな要素だったんだろうなって感じた。

 

Angela DavisのLecuture on Liberationという彼女の大学での講義について授業でディスカッションしたときにはっと気づいたことを思い出した。

「Freedom(自由)って自立なんだ」ってこと。

自由って依存しなきゃいけないものがほぼないことなんだなって。

それは選択肢がたくさんあることだろうし、自らの主体性を発揮できることなんだろうけど、根底にあるのは自立してるってことなんだなあって思ったのよね。

 

最後に、最初の記事で紹介されているVicotoria Lawが書いた記事はこちら:

www.jacobinmag.com

voxの記事と同じように暴力のもとになる力の不平等/不均衡も解決しなきゃいけないと言いながら、被害者のヒーリングに焦点を当てた草の根活動も紹介されてる。

 

おしまい。

 

刑務所は必要か。

久々に心が揺さぶられました。

mindblowingとはこのことって感じ。笑

 

「刑務所は必要か。」

なんて考えたことなかった。

刑務所があるせいで世界から暴力がなくならない、なんて考えたことなかった。

 

刑務所廃止運動の第一人者であるAngela Davisという学者の著作を読む機会がありました。彼女はマルキスト共産党にも参加している)で、アクティビストでもある学者。(というか、大半の人はアクティビストとしての彼女しか知らなかったりする)

でももう半世紀(!!)ほどアカデミアの第一線で人種差別や女性差別について取り組んでいる人。

特に彼女はintersectionalityを(多分)真っ先に提唱した人。

(あ、違うっぽい。Kimberlé Crenshawっていう法学者が最初だそう。笑)

インターセクショナリティとは、

とてもざっくり言うと、このコンセプトは、それまでのフェミニズムの「女性」というカテゴリーが「白人で中流階級」の女性を前提としてきたことに対する問題提起であり、様々な差別や抑圧は「交差」(intersect)しているという考え方です。

Crenshaw教授は、1989年の論文の中で、黒人女性がフェミニスト理論からも反レイシズム運動からも除外されることがあり、これは、人種とジェンダーが交差している現実を正確に反映していないからだと指摘します。

(引用:https://note.mu/chabujo/n/n4c2fa8b00d83

 

人種差別の議論では白人(男性)vs 黒人(男性)で、ジェンダーの議論では男性(白人)vs 女性(白人)で考えられていて、黒人女性がこぼれ落ちている。

黒人女性は黒人男性とも白人女性とも全く違う体験をしているのに、彼らの存在が考慮されていないから、より社会的に脆弱な立場に置かれている。

 

そこで、黒人女性の体験を分析している一人がAngela Davis。

intersectionalityは彼女の学問の中核にある。

特にWomen, Race, and Classが面白かった。

www.goodreads.com

 

例えば、アメリカで奴隷制の時代に、黒人女性がいかに男性と同じように奴隷制に対抗してたか、彼女たちの日常的な体験がどう彼女たちを形成してたかを綴っていてとても興味深かった。

奴隷女性は奴隷男性と同じようにプランテーションで肉体労働をしてた。

同じ労働を強いられて、同じように抑圧されていると意味で黒人女性は黒人男性と対等な立場にいた。

プランテーションでの仕事が終わり、家ではようやく人間に戻る。

奴隷女性にとっての家事(domestic labor)は白人女性にとってのそれとは違い、彼女たちにとって唯一意味のある仕事だったため、そこで人間性を取り戻す。(これは奴隷男性も一緒)

奴隷コミュニティにとっての家事は唯一自分たちが自由になれる、主体性を持てる場所だった。

奴隷の女性はもちろん奴隷男性と同じように主人に殴られたりもするが、女性はそれに加え、性的暴行を受ける。奴隷女性は普段(プランテーションの仕事や家の中では)奴隷男性と対等な立場にいたため、奴隷制そのものに疑問をもち、主人からの暴行にも抵抗していた。

 

当時、奴隷制廃止へと大きなきっかけになったと言われているストウ夫人のアンクル・トムの小屋では、奴隷女性の間違った表象がされていると指摘する。アンクル・トムの小屋に出てくる奴隷女性イライザは白人女性にとって大事な性質(キリスト教徒で、母性にあふれていて、従順)をもつ女性として表象されているけど、それは全く違うんだって。

 奴隷だった黒人女性の多くは、自分の尊厳のために、自分が受けている不当な扱いに怒り、抵抗し、自分たちの自由を要求していたって。

 

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そして、本題の刑務所廃止について。

DavisはAre Prisons Obsolete?(刑務所は時代遅れ?)で刑務所という機関について、疑問を投げかける。

www.goodreads.com

 

1980年代からアメリカで急激に刑務所が増え、そこに収容される人口も激増した背景から、

Why do prisons tend to make people think that their own rights and liberties are more secure than they would be if prisons did not exist?

 (なぜ人々は刑務所があることによってより自分たちの権利と自由が保障されると考えるのだろう?)

 と刑務所は現代の私たちにとって本当に効果のあるものなのか問いかける。

 

そして、刑務所によってお金儲けをする私企業が増えたことで刑務所産業が発達したことを指摘。それを彼女は"prison industrial complex"と呼ぶ。

刑務所はもともとただ犯罪者を刑罰を執行するまでの期間一時的に収容する場所でしかなかった。

それが特に資本主義が台頭した18-19世紀あたりから刑罰の最も主要な手法になった。刑は「懲役何年」という刑務所で過ごす「時間」単位で執行されるようになる。この「刑務所への収容が刑罰になる」という考え方は白人西洋的な考え方だと Davisは言う。

 

そして、刑務所が現代の私たちが知る形に設計された当初は犯罪者たちを社会から隔離し、(お坊さんのように)自分の魂と向き合う環境に入れることが更生に繋がるという考えがもとにあった。

今やテクノロジーの発達によって彼らの行動を監視、コントロールする機関へと変化し、社会から完全に切り離された孤独で抑圧的な環境はもはや更生につながるとは誰も考えない。(90年代には刑務所での教育プログラムへの予算が削減されたことからも、更生という目的が軽視されいることがわかる)

 

Davis曰く、刑務所は奴隷制よりもひどい、人種差別的で、暴力を生産している機関

奴隷制はまだ奴隷たちは大事な労働力だったから殺そうとは思わない。でも刑務所にいる囚人たちは殺しても別にいい存在として扱われる。)

 

刑務所へ収容される人たちは人種的にも偏っているし、刑務所関係者(警備員)からの女性への性的暴行は日常的。(みんなが必ず通る道として、まずはじめに膣にドラッグなどを隠し持っていないか確認するために、警備員が膣に手を突っ込む。それを拒むと小さい部屋に閉じこまれる。膣だけじゃなくお尻も捜査される。)

 

みんな当たり前に刑務所がある方が安全だと考えているけど、実は時代遅れで資本主義と結びついて国家が特定の集団を抑圧し、暴力を生産する機関になっているから、考え直さなきゃいけないというのが彼女の主張。

 

でももちろん、刑務所をなくすということは社会を大きく変えるということ。

イデオロギーからちょっとずつ変えて、最終的に刑務所を撤廃するのが彼女のビジョン。

何を犯罪とするかという法律から、教育も公共衛生も変えなきゃいけない。

特に学校は刑務所の代わりになり得るとDavisは言う。

 

それを読んで、確かにと思った。

そもそも学校は子供たちにとって生まれて初めての「社会」で、

そこでは「罰を与える」が一般的なしつけの手段になっているよなあって。

何か悪いことしたら自由を奪う。

休み時間遊べませんとか。

アメリカでも"time out"って、悪いことしたら部屋の隅のみんなから離れたところでしばらく座ってなきゃいけなかった。

停学、退学も学校という社会から追放すること。

 

自由を奪って、コミュニティから追放することが間違いを犯した人へすることでいいのだろうかって。

ほとんど疑問に思ったことがなかったけど、それがいかに恣意的で暴力的なものになり得るかって、すごく揺さぶられた。

学校での何気ない日常的な習慣から考え直さなきゃいけないよなあって。

 

この考え方をベースに女性の尊厳を守ろうとするフェミニズムの批判もとてもおもしろかった。

 

つづく。

 

  

 

 

 

 

 

 

外国人であるということ

長らくブログから遠のいていました。

なんとなく疲れて、自分の言葉に飽き飽きして、閉鎖していました。

 

1ヶ月前に春学期が終わり、夏休みに突入しました。 

春学期はすごく精神的に辛かった。

辛かったというか、しんどくて無気力状態になった感じ。

自分が外国人であることを殊更強く意識した。

 

別に忙しくなかったし、むしろ時間的にはすごく余裕があった学期だったのに、精神的に疲弊してた。

 

その理由を振り返ると、

  1. 人間関係の変化
  2. 世界への失望
  3. 「外国人」という目線で見る自分

 

1. 人間関係の変化

日本との時差もあって友達との連絡がそれまでほど頻繁に取れなくなって寂しくなったり、2年ぐらいの親友と関係が揺らいだりして人とのつながりが薄れていったことが悲しかった。

 

結局日本の友達ともその親友ともまた仲直りして連絡も頻繁にとるようになったけど、2ヶ月ぐらいはすごく寂しく感じてた。

 

特に親友とは、向こうの言動に傷ついて怒ってたけど、大事な存在だからこそ許し愛し続けるべきなのか、自分の気持ちを大事にして距離をおくべきなのかすごく悩んだ。

何が愛情ある大人な選択なのか、愛ってなんなんやろうってめっちゃ考えた。笑

 

でも自分が必要とされたいし、愛されたいっていう自分本位な欲求が根本にあるんやなあって。しばらく距離置いて時間が経ったことで気持ちも落ち着いて、やっぱり親友として大事な存在のままでいてほしいと思えるようになったけど、結局人間みんな孤独やなあってしみじみと感じました。笑 

 

いつだって結局は自分しかいない。

 

そして、自分に言い聞かせてたのは、

You don't own the things you love. (自分が愛してるからってそれを所有してるわけじゃない)

これは私の好きなコメディアンであるTrevor Noahが自伝(Born A Crime)で言ってたコンセプト。

www.barnesandnoble.com

彼が幼いとき、家に懐いてた犬がいた。いつも日中は外を出歩いて、夜になると帰ってくる。彼はその犬が大好きで別に日中どこに行ってるかなんて知らなかったし、知ろうともしてなかったんだけど、ある日その犬が別の家にも出入りしてることを知った。そこではまた全然別の名前で呼ばれてた。それで彼はとっても傷つくんだけど、そこで気づく。別に自分が大好きな犬だからといって、その犬を所有してるわけじゃない。

 

 

2. 世界への失望

これは授業ではとにかく資本主義がどれだけ教育を狂わせているか、格差を再生産させる社会構造や、権力あるものが自分たちの権力を維持するために恣意的なシステムを作ってることについてばっかり話してるし、現実社会では人種差別、性差別がいかに世界中で蔓延してるかっていうことを突きつけられるし、でもう心が完敗。

 

去年は心から全ての物事、人々を愛せたのに。全てのことが愛おしく感じられていたのに、なんかもう全くパッションも、愛情もなくなって、何に対しても感情が揺さぶられない麻痺した状態になったのよね。

 

特に3月中旬ぐらいかな。

13thっていうアメリカの刑務所についてのドキュメンタリーを見てから特に。アメリカがどれだけ人種差別が基盤になった国かっていうことがよくわかるドキュメンタリー。興味深いけど、とても心が疲れる映像だった。

ALECっていう大企業と政治家が手を組んだ組織が、刑務所を通じてお金儲けしやすいような政策を作ってから、とにかくどんどん刑務所に人を入れる。世界にいる囚人のうちの1/4はアメリカにいて、白人だったら生涯のうちに逮捕される確率は8人(だったはず、、)に1人だけど、黒人なら3人に1人。それだけじゃなく、歴史的に姿、形を変え、黒人を社会から排除する政策を作って、アメリカは黒人差別を強化、維持してきたという話もあった。見ててすごく心がきゅうってなる感じ。

 

そっからかな。なんか無になった。

春休みにニュージーランドに行って、好奇心がくすぶられてからはちょっと元気を取り戻したけど、教育っていうか学校の力って限界があるなあと思ったりもして、教育にあんまり興味なくなったし、なんかもうどうしようーって改めて迷子になり始めた時期でした。

 

週一でやってた中学校でのボランティアでは、いつも「あーやっぱり先生したい!」って思わせてくれたからやっぱりきっと一度はがっつり先生をしたいと思ってる自分もいるんだけど、それよりももっとダイレクトに政策や仕組みの変革に携われるところに行きたいなあとも思えてきた。

 

どうしたいのかわからなくなって焦った時期もちょっとあったし、

まだまだどうするのかわからないけれど、進路っていうか自分の人生ってクリエイティブなプロセスなはずなんだからもっと楽しもうって思えたのが4月になってからだったかな。

 

もう24なのに何も自分のものと思えるものがなくて焦る時もあるけれど、もっと人生楽しもうって。

 

 

3.「外国人」という目線で見る自分

 

春学期は外国人ということをさらに強く意識した。

特に授業で「文化とは」ということをテーマにしてたからかもしれないけど。

 

自分の名前がアメリカ人の名前じゃないこと、英語が第一言語じゃないこと、見た目が白人じゃないこと、アメリカで育ったわけじゃないこと、全部全部気になってしょうがない。

 

よく英語を話している時と日本語を話している時では性格は変わる?

と聞かれるのだけど、今答えるなら「基本変わらない。」

でも自分を見る目線が変わる。

 

“Internalized imperialism”(内面化された植民地主義/帝国主義?)

私は「ガイジン」だからって、こっちにいると自分の意見なんて言う価値ないんじゃないかって思えて発言を控える時があるって話をしたら、ある人から返ってきた言葉。

 

自分でもわかってたけど、こうやって人に言われることでなんだかすーと気持ちが軽くなった。

 

この学期成績はオールAだったけど、失敗だったんじゃないかって。

学期末にプログラムのアラムナイパネルがあった。

私が所属するプログラムの卒業生がキャリアについて話してくれた。

「在学生に対して何かアドバイスありますか?」っていう質問にパネリストの一人だった気の強そうな白人女性のOBが、

「きついこと言うかもだけど、授業中も教授とのネットワーキングの場。全然発言しない人は結局卒業後もあまり納得のいく進路に行ってない。」

て言った瞬間なんかもうグサってきたよね。

 

わたしやん、って。

 

教授と仲良くなるつもりだった。この学期。

ネットワーキング頑張るって。

でもできなかった。

前述の理由でそもそもやる気が急激に落ちたのもあるけど、

そういう風に感じてるって教授たちに相談することだってできたはず。

授業中も何回も発言しようかなて思った瞬間はあったのに結局しなかった。

言う価値ないなあって思って言えなかった。

 

本当に落ち込んだし、この学期失敗だったなーておもった。

 

誰にも言えないぐらい恥に感じてた。

なんでこんなに自分は弱いんだって。なんでこんなに勇気が出ないんだって。

 

薄々気づきながらも、口にしたことなかったことを言ったのよね。

 「わたしがわたしに限界つけてる。わたしが自分でガイジンだからっていう言い訳つけてる。」

  

それを聞いて、

“internalized imperialismだね”って。

 

しかも私の分野は白人が多い。

アメリカ人が大半の中で透明人間になった気持ちになる時がある。

でも彼らが言う意見の方が私の言う意見より「正しい・価値がある」なんて誰が決めた?って話だし、自分の中にある白人優位主義というか、アメリカすごいみたいなのが自分の行動に影響与えているんだなあって。

 

 

被抑圧者の解放は被抑圧者自身の意識の解放から始まる。

だから、まずは自分の意識を積極的に変えていかなきゃなあと。

 

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またまたブログの名前変えました。笑

「愛バンザイ」

大学生のとき、今回と同じように進路に焦っていた時、人生楽しんでいいんだって気づかせてくれた Niki De St. Phalleの作品の中でも一番好きな絵に書いてある言葉 <<Vive l'amour>> (愛万歳。英語だと May love live foreverらしい)

まあ多分愛が溢れた世界になりますように的なことだろうと思って、今の自分のぴったりだなって。

 

また心から全ての人間、物事を愛せるように。

 

愛も幸せも意識的に継続していかなきゃいけないものということを学んだ気がする。

一回そこに達したらずっとそこにいられるゴールみたいなものじゃない。

常にそこに向かっていく意識がないとすぐ消えちゃうもの。

 

夏はまた継続的にブログ書いていこうと思います。

 

おしまい。

 

 

 

国際女性デー だから

3月はWomen's moth。

8日はInternational Women's Day(国際女性デー)。

 

女性の生きづらさは女性として生きてきて、めちゃめちゃ感じてるからこそ改めて声を大にして言いたい。

日本ではもちろん、ヨーロッパでも、アメリカでも。

自分だけじゃなく、女友達の経験聞いてても。

普段から考えてることだけど、改めて今までジェンダーについて書いてきた記事をまとめてみました。

あくまで私がたまたま読んだ本とか目にしたものをベースに私が勝手に考えたことを書いてるだけだけど。

 

① 日本における女性の労働環境、経済力、セクシュアリティ、セクハラ・性暴力について

 

yukoyokoi15.hatenablog.com

・経済発展のために女も労働市場へ参入させたけど、実質男と同じように働ける一部の女にしか同等な雇用機会を与えられない。

・仕事か育児かの二者択一なのは女だけ。

・教育に投資した経済的リターン(のちに仕事で稼ぐお金)が女は男に比べて極端に少ない。

・国力となる「人口」を産む「女の体、性」は政府により管理される

・テレビで目にしたびっくりするようなセクハラ

 

みたいなことを書いています。

ちなみに、World Economic Forumの出してるGlobal Gender Gap Report 2018では、日本人女性は同じ仕事をしてても男性の7割の賃金しかもらえてない。

 

女性差別の実態。

これはブログ始める前にFacebookに投稿したことだったけど、結局女性差別ってどういうことなんっていうところに迫ってると思った。

2017年3月の自分の投稿を引用。

昨夜、上野千鶴子の「女嫌い ニッポンのミソジニー」を読み終えてから、胸がざわついてなかなか眠れなかった。

ミソジニーとは女ぎらい、女性蔑視のこと。
男性も女性も持っている。それをフロイトフーコーなどの理論を使って解説してる。

男と女の非対称性。
女の価値は男から与えられるものという言葉が頭を離れない。(正確にいうと、男の価値は個人の成功や能力によって決まるもので、女が規定するわけではない。男同士の中で決まるもの。それに女が付随する。女は個人の成功や能力と男に選ばれるという二つの基準があって、後者の方が重要なのだと。) そして、男の性的対象になるものだけが女だと。

その非対称性が悔しいし、ムカつく。
男は男同士の中で男になるけど、女は男によって女になる。

上野千鶴子の論調はちょっと言い過ぎなんじゃないかと思わないこともない箇所もあったけど、自分の周りの女友達で男に選ばれることが自分の価値だと思っている人はいっぱいいるし、自分の知っている男の人で女を性的対象になるかだけで見てる人もいっぱいいる。それぞれがそれを自覚しているかはわからないし、程度も人それぞれだと思うけど。実際にわたしも好きと言ってくれる人によって自分の存在価値を認識していたこともあったし、男の人のそういう目を感じたこともいっぱいある。
それが生きづらくてしょうがないからこそ、どうにかしなきゃと強く再認識した。

ミソジニーは女性を生きづらくしてるし、批判の対象なのは間違いないけど、だからと言って、そういう女性たちを見下して自分を「女」の外には置きたくないとも思った。女として生きたいし、女であることは大前提として1人の人間として自己完結できる人生にしたいなと。矛盾なのかもしれないけど。

しかも、もう私たちの中に刻み込まれたものなだけに、わたしの中にも内面化されたジェンダーロールや男女の非対称性(ダブルスタンダードというか)はあることを自覚した上で、男性に平等を求めるならわたしも平等を徹底しなければと思った。女であることに甘んじていた自分もいるなと気付かされた。

とにかく、この本で重要なことは、欲望の中にまで入り込んでいるけれど、男女の非対称性やミソジニーとは近代の産物であって、歴史的なものなのだということ。人間の本能や生物学的な普遍的事実なのではなく、近代以降の価値観なのだと訴えたい。だから、この理不尽な非対称性やミソジニー(女性蔑視)は男女の本能であり、生物学的特徴だから仕方ないとは言わせないと。

もっといろんなことを言っているから、詳しくは是非この本読んでほしい。気持ちの良いものではないけど。目を背けたくなることも書いてるし、そんな酷い話があるのかと思ってしまうところもあるけど。まだまだ日本は無自覚なまま男女の非対称性は再生産されていると思うから。

 

 ここで言ってる「そういう女性たちを見下して自分を『女』の外には置きたくない」っていうのは、ここの日本語あんま上手じゃないけど、「女らしさ」を否定して差別的な構造から解放されたいわけではないってこと。

これをすごくうまく言ってるのがChimamanda Adichieの

Feminism and femininity are not mutually exclusive.

という言葉。

この言葉すごく好き。

フェミニズムと女性らしさは両立できるよって。

 

 

 

③ 男性へ、

セクハラ・性暴力について考えてほしい。

これちょっと感情的になったやつや。笑

yukoyokoi15.hatenablog.com

 

これにも関連してるけど、「男性らしさ」も見直さなきゃいけないよねって話がこちら。

この記事(ジェンダーで男性の話をすると)あんまり反応がないというか、みんな興味ないのか、共感しにくいのか、女性の生きづらさの話は反応がたくさんあるのに、不思議。でも女性の問題だけではない、ということは言い続けたい。

yukoyokoi15.hatenablog.com

 

おしまい。

 

最近2時とか3時とかに寝て、10時とか11時に起きるという生活をしてるからか昼間がすごく眠い。

勉強してても全然集中できなくて、特に読み物が多いから読んでる間に寝てるみたいなことがしょっちゅう。

だから、目を覚ますためにいろんなことをするんだけど、そのうちの一つに過去の自分のブログ記事を読むっていうことをしてみた(笑)

 

このブログ始めた当初の記事を読んでて、この頃はその半年前に別れた人のことを引きずりまくってて、すごく苦しかったっていうの思い出した。

ある意味別れた時の傷を癒すために、ヒーリングのために始めたのかも。

彼がいなくても私の人生素敵やんって思えるように。

彼と過ごした過去ではなく、彼がいなくなった「今」もいいよねって思えるように。

だから、「今」感じてることをありのままに、すごく正直で繊細に綴ってるなあって思った。笑

今よりも記事一つ一つが短くて、もっと日常で起こったことベースに書いてる。

 

yukoyokoi15.hatenablog.com

 

最近はもっと知的好奇心というか、自分の思考が揺さぶられた時に書いてるなあって思った。

今は日常的な実体験の中であんまり敏感に感じ取れてないのかもしれない。

それか逆に刺激が多すぎて、日常のちょっとした出来事がミジンコぐらいの刺激にしか思えなくなったのかな。

 

ということで今、日常的に感じてることって何だろうって考えてみた。

 

① ニューヨークという場所に自分がいることについて

今の環境は時間を過ごせば過ごすほど、しっくりもくるし、違和感も感じる。

自分をわかってくれるっていう安心感と100%自分でいられない違和感が共存してる感じ。

 

大学院で学んでることや学校の校風自体が私の価値観や実体験とぴったり合って「もうほんまそれな!」ってなることが多い。仲間を見つけた感。

私と経験や価値観を共有できる人が多いのはすごく居心地が良いし、自分を理解してくれる感って安心に繋がるよね。自分らしくいて良いんだと思えるし、より尖った気がする。もっと偏ったとも言える。笑

 

だけど、やっぱり一番自分らしくいられるのは関西弁を話してる時。

自分が感じたニュアンスをそのまま伝えられるのは自分が育った言語。

外国語って究極学べばいくらでも身につくけど、感情と結びついているのは第一言語なんだって。(どっかのTED Talkかなんかで聞いた)

 

だから、んーこの感じ英語でなんて言うんやろってなって、あーでもない、こーでもないって考えた結果どれもしっくりこないから結局何も言わないっていう場面がよくある。

そういう自分を100%表現できないのはすごくもどかしいと感じる。

 だから日本人(ていうか関西人)と結局結婚した方がうまくいくんかなって思うときはある。笑

 

② 常に自分のアイデンティティが自分のいる状況に影響を及ぼしてる(っていう文献をよく読んでる)

私たちがある空間に存在する時、全くゼロで存在してるわけじゃないよなっていうこと。何の個性もなく、能面のように存在して、周りと接してるわけじゃないというか。

 

相手との関係の中で自分の人種や民族、性別、方言(アクセント)、学歴など(自分にとっては当たり前で気にしてなかったこと)が影響してくるんだってすごく感じる。

 

他者との関係性を築く上で、その相手が何者であるか、だけでなく、自分が何者であるかによって他者が何者であるかも変わるというか。

自分がゼロで相手が何かによって自分たちの関係性が決まるのでなくて、相手と相対的に自分がいくらか持ってて、そこに相手のアイデンティティも合間って関係性が構築されるというか。(これ伝わってる?笑)

 

先学期、ヒスパニックと黒人が多い地域で小学生のチューターをやってたんだけど、子供達は(きっと)ほぼアジア人と会ったことがなく、私みたいな東アジア系の顔=中国人って思ってる感じだった。

 

私は特に違和感も感じることなくその空間に入っていけたけど、最初に教えた小2のヒスパニックの女の子からは「あなたは中国人?」って聞かれて、あ、そうか私は彼らからしたら「自分たちとは違う人種の人」なのかなあってハッとした。

 

中国人か聞いてきたのはその子だけじゃなかったし、「ううん、日本人だよ」と言うと、「それって中国の一部?」みたいなことを言ってた小4のこもいた。

自分の人種とか民族というアイデンティティが、相手がどう私と関わってくれるかに影響するんだなあって。彼らのバックグランドだけじゃなくて、彼らにとって私が何者かっていうことも彼らと私の関係性に影響を及ぼすよってこと。

 

これは日本にいた時も感じた。

福岡の田舎にある公立中学校に訪問した時、「東京(大都会)からきた高学歴の帰国子女」っていう風に見られてるてことをすごく感じた。

 

真っ白でニュートラルな人間としては絶対存在できない。

 

③ Personal is political

政治的な話って嫌がられることが多いやん。

学校でも避けられるトピックだし。

でも私たちの生活全部政治的やんっていうのを最近よく考える。

自分が自分らしく生きることと政治は切り離せない。

Lizzoっていう今人気上昇中のアーティストが言ってた言葉がすごく印象的だった。

デブで黒人で女の自分が自分を好きって言うことそのものが政治的だと。

 

海外旅行に行きたい時に行きたい国に行くのも

留学するのも

子供産みたいし、子供ができてからも働きたいというのも

子供を作るためじゃないセックスをするのも

 

自分がしたいことを自由にできる

ありのままの自分に自尊心をもつ

全部政治的。

 

 

おしまい。